霊的修行者のまわり道日記

一般社団法人契山館の会員のブログです。このブログは個人の理解の範囲で書いており、会の公式な見解ではありません。

恐怖の中を歩め

今日は、名古屋の支部会。いつものように車で向かう。昼前に前日に現地入りしていた嫁と合流する。雰囲気がとても明るく別人のよう。合宿が近いこともあり、高級な意識が表面に強く浮いているのだろう。自分もかくありたい。講座はまた居眠りしてしまったが、座談会では、憧れのMsmさんとたっぷり一時間くらい話すことができ、大大満足で帰途についた。もうすぐ奥伝合宿を迎えるにあたり、もっと積極的な霊魂学の宣布のための活動が期待されることを知らされる。その通りだろう。思えば、まだまだと遠慮するあまり自分を守りすぎて、ほとんど自己を表現、主張してこなかった。掲示版、集会、もっともっと修行者としての自己を発揮していかないといけないのだろう。

目標

生徒から信頼される教師になること。正しく自己主張できるようになること。

Want

空手を再開する。ピアノの練習をする。

感謝

先輩と話をしていて、仕事で東京に行ったとの話が出て、「東京で得たものは、契山館と出会ったことだけ」と言ったら、「嫁さんと出会ったことが一番でしょう?」と切り返される。そうだ。そうなんだ。そうすぐに答えられなかったのは自分の心の狭さ。視野の狭さなんだ。

学び

金曜日。チャレンジの時間を10分前に突然任される。断るも、教師を辞めるかどちらか選べ、とのどうにも断れない空気になる。とたんに動揺し、自分の胆力のなさを知る。時間が始まる。チャレンジは、作業ばかりではない。生徒とコミュニケーションが醍醐味であり、時間の大半をなす。時間が進むにつれて、自分の弱点がどんどんあらわになり、どうして良いのか分からない空白の時間が目立つようになる。それを感じて、生徒の退屈が伝わり、私語や妨害行動が泊らない状態に陥ってしまう。自分の話がつまらないのだから、生徒が聞こうと思わないのはしょうがないのだろう。まじめな生徒が、とてもつらそうな表情を浮かべていたのを見た。自分がもっとしっかりしないと、生徒を不幸にしてしまっている。問題行動をする生徒を叱るのではなく、話す必要があるのだと分かりながら、どうしてもコミュニケーションを恐れてしまう。恐怖に飛び込むこと。修羅場を何度も何度も潜り抜けなければ、絶対に心は変わらない。強くならないのだろう。石橋をたたいてばかりでは、絶対に渡れないのだろう。そのことをまた思い知らされたように思う。こんなことだったら、空手を続けていたらもっと違っていたかもしれないと思う。あの時、そうできなかったのは、直観を信じられなかった自分の未熟さにある。

水、光、次伝、中伝、呼吸法、幽育