霊的修行者のまわり道日記

一般社団法人契山館の会員のブログです。このブログは個人の理解の範囲で書いており、会の公式な見解ではありません。

霊山の縁起とその意義

古来より、日本には霊山と呼ばれる山がいくつかあるが、どうして山が霊山になり、また何のために霊山が存在するのか、常々疑問に思っていた。今回の旅でその疑問が晴れたように思うので少し書いてみたい。

昔から人々は、美しい山の姿に浄土を見て、そこに貴い神様がおられると信じ、現世の辛さからせめて来世において逃れられるよう、真剣に日々祈っていた。

その純粋な祈りの中から、少しずつ高級な想念が、まるで雪が降り積もるように積もり始め、次第に山に高貴な存在が降りうるような霊的環境ができはじめる。

やがて、その人々の高級な想念を目印に、多数の高級霊魂が地上に引きつけられる。それにより、山にそして強い高貴な力が降りうる準備が整う。

しかし、人跡未踏の山に、その神々の強い力を受けうる人がいない。そこで、ご眷属は求める人々が力を受けられるよう、山を開きうる人を探すため里を調査し始められる。

やがて見つかったその人は、山の神様のご眷属からの霊感を得て、一大使命とばかりに動き出す。そして努力の末、人々が登拝しうるよう山を開く。例えば、富士であれば、役行者であり、立山であれば、佐伯有頼であり、御嶽山であれば、覚明行者といった風に、必ず高貴な存在からの霊感と思われる、開山のエピソードが残されている。

そうして開かれた山に、信仰者が登拝をするようになるが、美しく峻厳な山に登られるのは、よほどの健脚でなければ困難で、限られた人のみになってしまう。女人禁制であることもざらであったようであり、それでは、せっかくの高貴な力がすべての人々のためにならない。

では、何のために山が開かれたのか。そう考えたところ、師の著書の『龍の正義』に、富士山に登る信仰者の質を調査している霊魂のことが書かれていたことを思い出した。山の神様は、神気を与えうるような人が登ってくるのを待っておられるのではないだろうか。そのために山に降りられ、山を開かせたのではないだろうか。

つまり、山が開かれたことにより、山の神様の強い力を人が受けうる条件が整った。あとに続く人から、それを受けうるような魂の人が登ってくることを、神様は待っておられる。やがて現れる強い使命を持った道の人に、神気は与えられる。それにより、神人となったその人は、やがて山を降り、使命を帯びて山の神様の宗教の開祖として世に出る。

そうして、山の高級な気が、その人を通じて、求める人々にあまねく与えられるようになる。

日本にはまだ、山の神様の神気、霊気が降りる神聖な霊山がある。山の神様は今も、人々のために人生のすべてをかけて、神の道を求める人が登ってくるのを、待っておられるのではないだろうか。

霊山を前に静かに瞑目する中で、そんなことを思った。

水、光、中伝、呼吸法、ジョグ (24m46s)