霊的修行者のまわり道日記

一般社団法人契山館の会員のブログです。このブログは個人の理解の範囲で書いており、会の公式な見解ではありません。

神伝鎮魂法中伝合宿に参加して

 神伝鎮魂法中伝合宿に参加してまいりました。

 

 鎮魂法とは、魂を鎮めるとの字の如く、 どちらかというと動作の小さな静かな行法が中心のプログラムとな っています。
 合宿が開催される会場は、 一見すると何の変哲もない部屋なのですが、 合宿に関わる高貴な霊魂団が降りられる、その空間は、 高度に霊的な空間となっています。


 参加者は、その霊的な空間の中で、プログラムに従って、 ただの物質ではない霊魂としての自分自身の、 霊的な進歩向上を目指して、必死に格闘するのです。
 その相手は、時に自分であり、指導霊団であり、 偉大なる富士の御姿、 そしてその先におられる神霊なのかもしれません。
 参加者は、ただの一般人であり、霊的なものなど、 何も見えないし、何も聞こえません。その中で、手探りで、 心の奥底から、時折湧き起こる微かな直感を頼りに、 自問自答しながら、真剣に修行するのです。

 

 プログラムが深まるにつれ、もはや自分がどこにいるのか、 自分とは一体何者なのか。物質の肉体ではないが、 それでいて自分という存在がどこかにいて、 何かを思って生きている。それら複合的な自分という存在が、 渾然一体となって、霊的な空間の中で、高貴な存在、 そして神霊を、まるで永く生き別れた母親を求めるが如しに、 泣きながら求め彷徨うのです。


 そして、どれくらい時間が経ったのかも、分からなくなるほどに、 静かな時間が流れた時、やがて、この世界のどこかに、巨大な、 そして雄々しく、偉大で、 それでいて暖かな温もりを与えてくれる、 まるで地上の富士山のような存在が、眼前におられるような、 そんな感覚に包まれたかと思えば、… 気が付けば合宿は終わっていました。


 果たして、何かを掴めたのか、掴めなかったのか、あるいは、 自分の別の意識は何かを掴んでいたのか、 肉体の脳には何も分かりません。
 もっともっと、この霊的な空間で、 霊的な生命体としての真実を探究し続けたい、 あと数日この空間にいたい、と思ってみても、 すぐ目の前には日常が広がっているのでした。
 日常生活に戻ると、自分が霊的な生命体であるなんて、 意識に登ることは、まるでありません。 日々の生活のための糧を得ることが、何よりも最優先ですので、 次第に意識も物質的になっていってしまいます。
 それでも、自分は物質ではない霊的な生命体であることを、 実感できる空間が、この世に存在することは、 忘れないように生きていきたいです。そして、 またあの憧れの空間で、高貴な存在のお膝元で、 目一杯修行をしたいと、思うのでした。


 個人的な感覚をただただ書き連ねてしまいました、それでも、 どうしてもお伝えしたかったことは、ただ一つです。

 

 私たち人間は、ただの物質ではなく霊的な生命体です。でも、 物質以外のものは、目にも見えず、聞こえもしないため、 肉体の感覚に縛られてしまい、 霊的な真実からは遠い日常生活を生きています。
 一方で、地上の師、ただ一人は、 霊的な生命体としての最高峰におられる神霊の元へと続く道を、 人々のために切り開いてくださり、そして、 この不自由な物質の世界におられながらも、霊的な真実のために、 日夜その身を捧げておられます。
 師がおられるからこそ、地上に高貴な霊的空間が存在し、 そこに入って初めて、人間は、自分が霊的な生命体であることを、 実感として理解することができるのです。


 現代の日本にこうした空間があり、修行法があり、 それを支える指導担当の方がおり、そして、 神霊より修行法を授かり、 人類と神霊との唯一の架け橋であられる、師がおられること、 その奇跡に、ただただ感謝するのでした。

 

 最終日、遠くに、師の背中を拝し、感謝が込み上げてきて、 それ以外に何も持たない私は、 ただただ感謝するしかないのでした。


 願わくは、多くの人々が、 霊的な真実を目指してくださることを祈り、筆を置きます。

神伝鎮魂法 - 幽体の救い (MyISBN - デザインエッグ社)

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  • 作者:水波 一郎
  • 発売日: 2015/11/02
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)