霊的修行者のまわり道日記

一般社団法人契山館の会員のブログです。このブログは個人の理解の範囲で書いており、会の公式な見解ではありません。

目標

人生の伴侶を探す。講演資料を作る。支部主催講演会推進。空手黒帯。そろばん。海外旅行を計画する。電子書籍を進める。王寺の母に相談する。大学への数学勉強始める。

ToDo

お茶会レポ。文字起こし。読書。講師資料作る。

出来事

朝、車の車検整備を終えて、やお市民病院に向かう。13時を少し遅れて着く。そこで主治医の桑山先生から父の容態を聞く。最初の入院時の白血病細胞の数を上回る数値になって、発熱、糖尿病などを併発し危篤に近い状態とのこと。抗癌剤治療行うが効果は期待できず、数ヶ月持つか持たないか、いつ突然意識を失ってもおかしくはない状態とのこと。知人の方に連絡をとり、別れの機会を作ってあげてくださいとのこと。

病室に行くと父は眠っていた。少しして目を覚まして、話をした。調子は昨日が最悪だったが今日は少しましとのこと。退院がかなった2週間は天国だったと涙ながらに話す父の姿に、ほんの2週間前には、父の元気な姿を見ていただけに、涙が流れた。桑山先生から「もう一度退院できるようにします。だから頑張りましょう。」と手を取りながら言われた言葉に勇気をもらって、今は頑張る気力があるとのことだった。

神様、もう一度父の願いを聞き届けてください。そのために私は神様の手足となって働きます。多くの人は苦しみながら死んでいきます。でも、それは物質の身体を持ったがゆえのこと。ただそれだけのこと。人は己によって積み重ねた行為によって、それぞれの重荷を背負うことですでにその報いを受けているのではないでしょうか。ならば、その上さらに死に際してなぜ苦しみが与えられるのでしょう。自分の歩んできた人生の重みは死後の新しい世界で噛みしめれば良いだけのはず。死の苦しみはどうか安らかなものであって欲しい。それは勝手な願いなのかもしれない。でも、父の苦しみを見るのは辛い。母はもっと辛いだろう。父は…。

そんな父を前にして、帰りの母の姿を横目に見ながら、自分は何をなしただろう。一体何を考えていたのだろう。自分は愛から発した言葉、行動ができていただろうか。自分は愛の無い人間なんだろうか。自分の未熟さにあきれてしまう…。

感謝

主治医の先生は、父に対して誠の心で接して頂いている。そのことが父の心にどんなに染みているだろう。他人の愛をあまり信じることのできなかった父の心にどんなにか癒していることだろう。最後に良い先生に出会えたことを感謝したい。

学び

ここ数日の自分はどうだったろう。父が苦しみの中を生きているというのに、真剣に毎日を生きていただろうか。自分の生活、行動を整えることで、周囲が整っていく、それが奥伝を経た霊的修行者の人生なんではないだろうか。逆に言えば、自分の生活が荒れていれば、周囲も荒れていく、そんな気がしている。自分の行動が周囲に良くも悪くも影響を与えていると考えて、日々を一生懸命に生きよう。誘惑、甘えに負けていてはならない。自分を大切に。人を大切に。辛さから目をそらさない。逃げない。