霊的修行者のまわり道日記

一般社団法人契山館の会員のブログです。このブログは個人の理解の範囲で書いており、会の公式な見解ではありません。

二十億光年の孤独

金曜日は文化祭当日。
合唱のピアノ演奏を買って出たからには、失敗は許されない。生徒からもプレッシャーをかけられる中、夜遅くと早朝に真剣に練習し、本番に臨んだ。
舞台に上がる前、緊張が高まり、気持ちを落ち着けるため、何度も守護霊様に祈念した。勇気をお与えください、と。
一呼吸をおいて演奏をはじめると、祈りの成果があったのか、慌てることもなく大きな失敗もせず、いい調子。あとでビデオを見ると、生徒もアドリブで手を繋いでの合唱になり、演奏後は拍手にみんな包まれながら大成功に終えることができた。この日までのずっしりとした肩の荷もおり、ほっと一息をつく。
ストレスばかりの日々の中にも、こんな一日もあるのだから人生は捨てたものじゃない。

文化祭をどうしても成功させたかったのはわけがあった。成すべきことをきちんと成した上で、週末の集会に臨みたかったから。

今日の集会では霊査に選ばれた。
日頃あまり霊的カルマの影響など、意識することはなかったのだけれど、指摘されたことは、今強い衝動が沸いて来ていて危険な状態にあるとのことだった。
このまま放っておけば、他人を攻撃し人間関係を壊し仕事も失うほどとのこと。その場で霊術で対処いただいた。
そこで、この衝動の過去世が明かされたところによると、それは誰一人理解されなかった怒りであり悲しみであり苦しみであった。その過去世の幽体に先生は語りかけ、その心情に高貴な光を当て、あたたかな言葉をかけてくださった。心の奥が喜びに震え、あたたかな心地がして、晴れやかな気持ちに包まれていた。
何千年、何百年、何十年前なのかはわからないが、過去に自分は怒りと悔しさの中に寂しく死んでいったのだろう。傍目から見れば、報われることのない悲しい人生だった、ただそれだけのありふれた人生に過ぎない。しかし、今日この日本において、遠い昔のそのちっぽけな悲しい人生に、神様の光が当たったのだ。悲しみが報われたのだ。人知れない、とるに足らない悲しみに先生は光をくださったのだ。
神様は決して人の苦しみ悲しみを見捨ててはおられなかった。どんなに時を経たとしても、神伝の光のある限り、その苦しみ悲しみは必ずいつか報われる。そのことを今日知った。
神伝の修行者が水を被るとき、遠い遠い過去の悲しみの一つが、遥かな時を超えて神霊の愛に包まれる。

水、光、奥伝、呼吸法、幽育